『VRビジネス成功の法則』メモ②
世間に出回っているVR映像は、ただ撮っただけという作品だらけ。
それでは最初は面白くても、すぐに飽きてしまう。
ポイントは「次はこっちを見てください」「こちらが面白いですよ」というストーリーづくり。これはテレビがずっとやってきたところ。
キャッと声がして、体験者を振り向かせたり、途中までストーリー仕立てで進ませておいて、急に突き放して独りぼっちの怖さを体験させるような演出もあり。
p.188 大田亮
VRコンテンツを制作し、テレビ番組に誘導するケース。VRと地上波、映画との関係を進化させていく。
『VRビジネス成功の法則』メモ①
現実に混ざる仮想
技術者たちは視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感を支配し、現実世界との境目がない、あるいは現実世界の区別がつかない、実質的に現実同じ空間を目指している。
現実世界と仮想世界との境目が消えて現実に仮想が混ざり合ったとき、どうなるか。
「人間は何が嘘で、何が真実かに興味をなくすのではないか」藤井直敬
現実は私たちを裏切らないと信じているが、いま見ているものが現実か仮想か疑い始めるとすべてが怪しく感じられ認知コストが高くなりすぎる。すると、人間は確認するのをやめて生きるようになるのではないか。
MR(Mixed Reality)
VRもARも目指す頂きはMRにあり、同じ山を別々のルートから登っているにすぎない。
ARは現実世界に何かを追加するイメージが強いが、引き算も可能。例えばテーブル上にあるコーヒーカップがカメラ越しにみるとなくなっているなど。
MRが実現すると、現実と仮想の区別はつかなくなる。いま見ている世界のどの部分が現実で、どの部分がCGなのかわからなくなってしまう。
視界に見たいものだけを表示し、見たくないものは削除できる。
VRのように完全な仮想空間に入り込めるし、CGの表示を消せば現実世界をありのままに見つめられる。現実70%、仮想30%といった設定変更もできる
P.31
自分が見ている世界と他人が見ている世界は同じではなくなる。
└※SNSのディスプレイはすでに人々は違うものを見ている旨を、落合陽一が書いてたな。
p.32
VRは体験の消費。体験者はコンテンツの中にある物語をくみ取って、自分で物語をつくろうとする。そういう点ではVRに没入感は関係ない。映画だって没入感はゼロだが、物語を消費できる。
p.34
└まさかの没入感を重視していない発言。
→没入感という言葉自体が仮想空間を前提にしている。
いまここにある現実に没入感があるかないか関係ない。
仮想と現実を区別しなくたったとき、人間は物の感じ方を大きく変えていく。
現実にはそこにないものが本当にあるとしか思えない未来になると、僕らは物の感じ方を大きく変えるはず。
p.37
現実空間にデジタルな別のレイヤーを差し込むのが本来のVRの使い方。
└なぜ?不合理な人間のふるまいを知りたいから?
見たくない人を消してしまうことができる世の中で人がどのようにふるまうかに興味があるかと。
今、研究者はHMDではなく、現実世界にどうやって情報を重ねていくかに興味があるとのこと。空間にディスプレーを出してみたり、プロジェクションであらゆるところをスクリーンにしてみたり。
p.36
認知の仕方が変わる。
福岡の人が一瞬でこちらの部屋にやってくる。
アーカイブされたコンテンツをいま起きているように体験できれば、時間に対する考え方が変わる。
時間と空間の制限が解かれてしまう。
VRがどうやって定着するかは分からない。
いま落ちている巨大なお金が出口を見つけて、VRは社会に実装される。
向こう2年で方向性が見えてきて、5年くらいで便利だねと認知され、10年もすれば仕事で当たり前に使っている。そうして社会の仕組みが変わっていく。
時間と空間とが視覚的に制御できるようになったとき、その社会で人はどうふるまうのか。
p.40
【感想】
藤井さんのインタビューを読んでいると、VRの世界が本当に開けてよいのか分からないパンドラの箱のように思える。
しかし、もう後戻りはできないのだ。
『スーパーヒューマン誕生』メモ①
バーチャル・リアリティは90年代に研究が盛んになり、知見の蓄積が多くある分野。
近年になりスマホに使われている有機ELディスプレーや加速度センサーやジャイロなどのセンサー類、また動作処理や画像生成を行う共通のプログラムとしてゲームエンジンが開発されたことにより、ようやく普及が始まろうとしている。
あとがきより
人間は五感などの感覚器を使って外部環境とインタラクションすることで、物理世界から現実感に基づく世界を構成している。
新たな現実感をつくりだす技術がバーチャル・リアリティ。
p.229
私たちは身体に備わっている視覚や聴覚など五感を中心としたさまざまな感覚器を通じて、外部環境やその変化、情報といったものを現実世界(物理世界)から受けとることで、それぞれの「現実感」をつくり世界を理解している。
言い換えれば、「客観的な物理世界=現実世界」と、「私たち自身が主観的に感じとる世界=現実感」はまったく異なるものである。
p.116
物理世界とバーチャル世界が境目なく結ばれた「R-V(Reality-Virtuality)連続体基盤」が形成され、その基盤の上に都市-地方、個-社会がシームレスに繋がれた社会が構築されていく。
このバーチャル社会基盤の上で、時間や距離などの物理的制約、運動や認知能力などの身体的制約から解放されて、誰もが自由に社会参加、生産活動、ひいては経済的自立が行えるようになる。
バーチャルリアリティ技術・夢ロードマップ
http://journal.vrsj.org/18-4/s73-74.pdf
『デザイン化される映像』メモ① / 知覚拡張型映像の歴史から考える
劇映画は、監督の演出やあらかじめ書かれた脚本に従ったプロの俳優の演技を記録した映像を編集してひとつの物語を生み出す。
美術映像(実験映像)の場合は、物語を構成することを念頭に置いていない場合が多く、俳優どころか人間が映ってないことも多い。
表現や演出も、劇映画が主にストーリーの展開を通じて観客のカタルシスを誘おうとするのに対し、美術映像の場合は観客の網膜的刺激に訴えかけることを主眼とするものが多い。
知覚拡張型の映像表現
サイケデリック・シネマ、コズミック・シネマ、エンヴァイラメント・シネマ、エレクトロニック・シネマなど様々な種類がある。
└どれも初めて聞いたが...
マルチプロジェクションにスポットを当てたのが、アメリカのイームズ夫妻。
デザイナー・建築家として日本でも人気だが彼らはパワーズ・オブ・テンなどの作品で知られる映像作家でもある。
Powers of Ten with Japanese translation
立体的な空間認識に長けていたデザイナーであり、展示プロデュースに積極的に映像を活用しようとしていた。
スタン・ヴァンダービーク(1927-84)
メディアアーティスト
60年代からコンピュータアニメーションや「拡張表現」を追求した映画などを制作。
ムーヴィードロームという独自の上映システムを考案。
30人くらいが入れる全店周型ドームで、ドームの内壁に複数の映像を同時に映し出す。
『映画技法のリテラシーⅠ』メモ② / 照明
照明には様々な種類のスタイルがある。キーと呼ばれる基調照明となる明るさがあり、そのキーによって映画のテーマやムード、さらにはジャンルさえも決定しうる。
■ハイキー
明るく、派手で、曖昧な影は作らない。コメディやミュージカル。
■ハイコントラスト
明暗の層がくっきりと分けられ、暗闇が劇的な効果を生み出したりする。
悲劇やドラマ。
■ローキー
ぼんやりした影や光の溜まり。ミステリーやスリラー、ギャング映画。
└?
様々なキーが組みあわされて使われている。例えば背景はローキーで、手前だけ少しハイコントラストにするなど。
明と暗は、人類の夜明け以来象徴的な意味が付与されてきた。
レンブラントやカラバッジョも光と影の対比で心理的な効果を狙った。
一般的には、暗闇を恐怖や悪意、未知なるものを示すために使い、光を安心や美徳、真実、喜びを示すものとして使用してきた。
わざと明暗を逆転させて観客の予想を裏切るものもいる。
ヒッチコックは、観客に揺さぶりをかけようと、まばゆい光の中でもっとも凄惨な暴力的なシーンを起こさせた。
焦点移動:観客の視線を様々な距離へと導く。
「力がなければ責任は伴わないか?いや、それ違う。」
キックアス
『映画技法のリテラシーⅠ』メモ① / リアリズムとフォーマリズム
20世紀を迎える前から、映画は2つに方向に分かれて発展してきた。
①リアリスティックな方法
②フォーマリスティックな方法
①の祖はリュミエール。
リュミエールのは日常の出来事を撮影し人々を魅了した。
人日が日常生活見聞きしてきたことが忠実に再現され、今再びそれらを再体験しているかのような錯覚を楽しんだ。
└レアンドロは記憶の再現に、錯覚をとりこむことで、日常生活の延長にある新しい体験を生み出しているところが魅力なのだろう。
②の祖はメリエス。
空想物語を描いた幻想映画を製作。
奇抜な物語とトリック撮影を織り交ぜた典型。
※リアリズムはスタイルだけど、「リアリティ」はリアリズムにもフォーマリズムにも存在する。映画の構成材料が現実味があるかどうか。
└リアリティがない作品は、そもそもへぼいということかな。
リアリスティックな映画は生の素材に加工を加えるのを最小限に抑えて、素材のリアリティを重視。
リアリストたちは、彼らの映画の世界は操作されておらず、現実世界を客観的に映し出した鏡であるという幻想を保持しようと努める。
一方で、フォーマリストは故意に現実世界における生の素材を様式化し歪める。
リアリストは映像がどのように操作されているかよりも、どのように映っているかに関心がある。彼らにとってカメラは現実を解説ぬきで再現する記録装置にすぎない。
フォーマリストは、自分自身の主観的な体験を映像表現にすることに関心がある。
カメラは主題を解釈する手段であり、客観的な性質よりも本質を強調する道具として使われる。
生の現実を操作し様式化することで真のリアリティを表現することを目指す。
※VRはリアリスティックな情報伝達に向いている気はするけど、遅かれ早かれ「真実味」の強調など演出が入るのだろう。
※「真実味」の強調は、人の意図が多く入り込む。フェイクニュースなども関わり合う領域だろう。
※世界中、例えばアマゾンやサバンナにドローンが飛び回り、人々はドローンの映像を通して世界を見る。見たいけれどおぞましい光景かもしれない。
ほとんどのリアリストたちは形式や技術より内容こそがもっとも重要であると主張する。リアリスト映画は実際の出来事や人々を撮影するドキュメンタリーへと向かう傾向がある。
一方、フォーマリストは技術や表現の仕方を重要視する傾向がある。もっとも極端な例はアヴァンギャルド映画に見られ、完全に抽象的なものもある。非現実的な色、線、形が唯一の内容である。
ほとんどのフィクション映画はこの両極端の中間の地点に位置している。
「写真とは必ずしも現実のすべてを完全に映し出したものではない。写真画像は被写体のもつすべての特性の中から1つの特性だけを選んで映しているに過ぎない」
ウラジミール・ニルセン
マクルーハンは、1つのメディアにおける内容は実際にはもう1つの違うメディアでもあると指摘している。
たとえば、リンゴ(味覚)を食べている男の写真(視覚イメージ)は、異なる2つの伝達メディアを関わらせている。それぞれ別の方法で情報(内容)を伝えているのだ。
└なんとなくしか理解できない..
男がリンゴを食べている写真を言葉で表現することは、すでにもう1つの伝達メディア(言語)を使っており、別種の情報伝達。
いずれの場合にも、表面的にはこれら3つは同じ内容を含んでいるが、詳しい情報はメディアによって決定される。
ようは、
情報を伝える媒体によって、内容は変化してしまう。
表現の仕方(形式)こそが絵画や文学、演劇や映画の真の内容なのだ。
映画の主題をよりよく理解するための1つの方法は、その映画の主題をどのように表現しているかを知ることだ。
物語の語られ方は物語の一部なのだ。
同じ物語を上手にも下手にも語ることができる。つまり物語をほどほどに語ることもできるし、見事に語ることもできるのだ。要は語り手次第なのだ。
ハーマン・G・ワインバーグ
恵比寿映像祭で見た、喋れないシリア人の少年が身振り手振りで戦場の惨禍を伝える映像を思い出す。迫真に迫っていたけど、大雑把にしか伝わってこなかった。
もっともあれを実際に目の前でやられたら、また印象は違っただろう。
形式と内容は、映画において(他のどんな芸術においても)究極的同じものである。
カンフーパンダ / 2008
知らせは知らせ。
良いも悪いもない。
42分
Amazonプライムで無料で見られて、
宇多丸が褒めていなければ決して見ることはなかっただろう作品。
強くなるための魔法のような方法などなく、自分らしさを活かすことが強みという話。
好きなものが運命だと、新入りが高弟をさしおいて奥義を手に入れてしまうというような幸運なことが起きるわけだけど、そうじゃない場合はどうなるんだろうか。
まぁそれが主題だと物語が成立しないのかな。
とにかく世界観がよく作られている。
冒頭やEDの2Dアニメーションは、東洋的なものとアメコミ感がうまくミックスされていてかっこいいし、3Dアニメーションにはとにかく感心する細やかさ。
壁の質感や建物の印影は世界観にリアリティを与えて、細やかな表情や振る舞いからは各キャラクターの性格が見てとれる。
真に強い者はユーモアがあるってのも良い。
「遊び」の要素は大切だと思う。
さて、今年見た映画をとりあえずランキングしてみよう。
①ブレードランナー2049
②バーフバリ2部作
③カンフーパンダ
④スノーピアサー
①と②は気分で入れ替わる感じ。しかし、イメージと現実が曖昧になるシーンが好きな僕としては、とりあえず①はブレードランナーかな。