『映画技法のリテラシーⅠ』メモ① / リアリズムとフォーマリズム
20世紀を迎える前から、映画は2つに方向に分かれて発展してきた。
①リアリスティックな方法
②フォーマリスティックな方法
①の祖はリュミエール。
リュミエールのは日常の出来事を撮影し人々を魅了した。
人日が日常生活見聞きしてきたことが忠実に再現され、今再びそれらを再体験しているかのような錯覚を楽しんだ。
└レアンドロは記憶の再現に、錯覚をとりこむことで、日常生活の延長にある新しい体験を生み出しているところが魅力なのだろう。
②の祖はメリエス。
空想物語を描いた幻想映画を製作。
奇抜な物語とトリック撮影を織り交ぜた典型。
※リアリズムはスタイルだけど、「リアリティ」はリアリズムにもフォーマリズムにも存在する。映画の構成材料が現実味があるかどうか。
└リアリティがない作品は、そもそもへぼいということかな。
リアリスティックな映画は生の素材に加工を加えるのを最小限に抑えて、素材のリアリティを重視。
リアリストたちは、彼らの映画の世界は操作されておらず、現実世界を客観的に映し出した鏡であるという幻想を保持しようと努める。
一方で、フォーマリストは故意に現実世界における生の素材を様式化し歪める。
リアリストは映像がどのように操作されているかよりも、どのように映っているかに関心がある。彼らにとってカメラは現実を解説ぬきで再現する記録装置にすぎない。
フォーマリストは、自分自身の主観的な体験を映像表現にすることに関心がある。
カメラは主題を解釈する手段であり、客観的な性質よりも本質を強調する道具として使われる。
生の現実を操作し様式化することで真のリアリティを表現することを目指す。
※VRはリアリスティックな情報伝達に向いている気はするけど、遅かれ早かれ「真実味」の強調など演出が入るのだろう。
※「真実味」の強調は、人の意図が多く入り込む。フェイクニュースなども関わり合う領域だろう。
※世界中、例えばアマゾンやサバンナにドローンが飛び回り、人々はドローンの映像を通して世界を見る。見たいけれどおぞましい光景かもしれない。
ほとんどのリアリストたちは形式や技術より内容こそがもっとも重要であると主張する。リアリスト映画は実際の出来事や人々を撮影するドキュメンタリーへと向かう傾向がある。
一方、フォーマリストは技術や表現の仕方を重要視する傾向がある。もっとも極端な例はアヴァンギャルド映画に見られ、完全に抽象的なものもある。非現実的な色、線、形が唯一の内容である。
ほとんどのフィクション映画はこの両極端の中間の地点に位置している。
「写真とは必ずしも現実のすべてを完全に映し出したものではない。写真画像は被写体のもつすべての特性の中から1つの特性だけを選んで映しているに過ぎない」
ウラジミール・ニルセン
マクルーハンは、1つのメディアにおける内容は実際にはもう1つの違うメディアでもあると指摘している。
たとえば、リンゴ(味覚)を食べている男の写真(視覚イメージ)は、異なる2つの伝達メディアを関わらせている。それぞれ別の方法で情報(内容)を伝えているのだ。
└なんとなくしか理解できない..
男がリンゴを食べている写真を言葉で表現することは、すでにもう1つの伝達メディア(言語)を使っており、別種の情報伝達。
いずれの場合にも、表面的にはこれら3つは同じ内容を含んでいるが、詳しい情報はメディアによって決定される。
ようは、
情報を伝える媒体によって、内容は変化してしまう。
表現の仕方(形式)こそが絵画や文学、演劇や映画の真の内容なのだ。
映画の主題をよりよく理解するための1つの方法は、その映画の主題をどのように表現しているかを知ることだ。
物語の語られ方は物語の一部なのだ。
同じ物語を上手にも下手にも語ることができる。つまり物語をほどほどに語ることもできるし、見事に語ることもできるのだ。要は語り手次第なのだ。
ハーマン・G・ワインバーグ
恵比寿映像祭で見た、喋れないシリア人の少年が身振り手振りで戦場の惨禍を伝える映像を思い出す。迫真に迫っていたけど、大雑把にしか伝わってこなかった。
もっともあれを実際に目の前でやられたら、また印象は違っただろう。
形式と内容は、映画において(他のどんな芸術においても)究極的同じものである。